東京高等裁判所 平成3年(行ケ)188号 判決 1994年10月13日
愛知県名古屋市名東区亀の井1丁目167番地
原告
カツヤ産業 株式会社
同代表者代表取締役
橘勝也
同訴訟代理人弁護士
鈴木利治
同弁理士
筒井大和
同
中野敏夫
東京都新宿区加賀町1丁目1番1号
被告
大日本印刷 株式会社
同代表者代表取締役
北島義俊
同訴訟代理人弁護士
本間崇
同弁理士
小西淳美
主文
特許庁が昭和62年審判第15671号事件について平成3年5月16日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1 当事者が求めた裁判
1 原告
主文と同旨の判決
2 被告
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「印刷方法」とする特許第1233304号発明(昭和52年8月12日出願、昭和57年10月27日出願公告、昭和59年9月26日設定登録。以下「本件発明」という。)の特許権者である。
被告は、昭和62年8月31日、原告を被請求人として特許庁に対し、本件発明につき無効審判の請求をした。
特許庁は、上記請求を昭和62年審判15671号事件として審理した結果、平成3年5月16日「特許第1233304号発明の特許を無効とする。」との審決をなし、その謄本は同年7月3日、原告に送達された。
2 本件発明の要旨
任意の模様を水溶性ベース上に印刷してその上に接着剤を塗布し、この印刷模様を上記ベースの水漬による溶解により水面上に残留させて半流動性の印刷模様を形成し、該印刷模様に上方から物体を押し当てて、物体表面への模様転写を行わせることを特徴とした印刷方法。
3 審決の理由の要点
(1) 本件発明の要旨は前項記載のとおりである。
(2) 検証及び検証結果
平成3年3月26日、特許庁会議室において、本件特許の特許請求の範囲に記載された印刷方法による印刷転写の実験を、明細書に記載された実施例にそって実施した。
そして、水溶性ベースとして、ポリビニールアルコール(PVA)フィルムを用いた場合に、次の検証結果が得られた。
<1> 曲面を有する被転写体に、木目模様が転写された。
<2> 木目模様転写後の被転写体表面には、粘着性を有し透明で光沢のある付着物が存在した。
<3> 接着剤を噴霧後の水面上の印刷模様に大きな変形はなかった。
(3) 当審の判断
上記検証において、水溶性ベースとしてPVAフィルムを用いたものは、木目模様転写後の被転写体表面に、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が存在した。
ところで、検証においては、水溶性ベースの水漬による溶解消失を確認するために、PVA転写シート(PVAフィルム上に全面木目模様を印刷したシート)の一部に一体に印刷を施さないベースのみの部分を形成し、このPVA転写シートを約5分間水漬した後に、接着剤を噴霧し、被転写体に印刷図柄を転写したのであるが、その際、前記PVA転写シートの一部に一体に形成しておいた前記印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいた。
そして、前記の透明で光沢のある付着物は、この水溶性ベースの水漬による溶解消失を確認するために、PVA転写シートの一部に一体に形成しておいた印刷を施さないベースのみの部分で、未だ水面に浮かんでいた物質と同じものであると認められ、PVAベースが未だ水に溶解消失せず、軟化膨潤して、残留していたものであると認められる。
したがって、水溶性ベースを水に漬けると、これが速やかに溶解消失され、印刷模様だけが変形されることなくそのままの状態で水面に浮上させることができるものとは認められず、また、印刷用のベースは転写前において印刷模様から剥離し、被転写体表面に付着していないものとも認められない。
してみれば、本件特許発明の明細書に記載された実施例に基づき検証を行なっても、明細書に記載されたとおりの結果が得られないのであるから、本件特許発明の明細書の発明の詳細な説明の欄には、当業者が容易に実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果が記載されているものとは認められなく、その特許請求の範囲の欄には、その発明の構成に欠くことのできない事項のみを、記載しているものとも認められない。
したがって、本件発明は、特許法36条3項及び4項(昭和60年法律第41号により改正されたもの)の規定に違反しており、その余の点を判断するまでもなく、特許法123条1項3号の規定により、その特許を無効とすべきものである。
4 審決を取り消すべき事由
(1) 審決の理由中、(1)(本件発明の要旨)、(2)(検証及び検証結果)、(3)当審の判断のうち、上記検証において、水溶性ベースとしてPVAフィルムを用いたものは、木目模様転写後の被転写体表面に、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が存在したとの点は、認め、その余は総て争う。
(2) 取消事由
<1> 認定及び判断の誤り(取消事由1)
審決は、審判手続において、特許請求の範囲に記載された印刷方法による印刷転写の実験を、明細書に記載された実施例にそって実施する検証(以下「本件検証」という。)をなした。
審決は、本件検証のうち、水溶性ベースにPVAフィルムを用いた場合(以下「本件検証1」という。)において、木目模様転写後の被転写体表面には、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が存在したと認定したうえPVA転写シート(PVAフィルム上に全面木目模様を印刷したシート)の一部に一体に印刷を施さないベースのみの部分を形成し、このPVA転写シートを約5分間水漬した後に、接着剤を噴霧し、被転写体に印刷図柄を転写したのであるが、その際、前記PVA転写シートの一部に一体に形成しておいた前記印刷を施さないベースのみの部分が未だ水面に浮かんでいたと認定した。
しかしながら、印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいたとの認定は誤りである。すなわち、PVAベースは、転写時には、既に溶解し、水面に浮かんでいたのは、ベース(PVA)ではなく透明インク(メジュウム)であった。
そして、審決は、前記の印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいたとの誤った認定に基づき、前記木目模様転写後の被転写体表面に存在する粘着性を有し、透明で光沢のある付着物は、水面に浮かんでいた印刷を施さないベースのみの部分と同じ物質であるから、PVAベースが未だ水に溶解消失せず、軟化膨潤して、残留していたものであると認定し、水溶性ベースを水に漬けると、これが速やかに溶解消失され、印刷模様だけが変形されることなくそのままの状態で水面に浮上させることができるものとは認められず、また、印刷用のベースは転写前において印刷模様から剥離し、被転写体表面に付着していないものとも認められないとして本件発明の明細書に記載された実施例に基づき検証を行なっても、明細書に記載されたとおりの結果が得られないと判断したが、かかる判断はその前提である被転写体表面に付着した物質がPVAベースが未だ水に溶解消失せず、軟化膨潤して、残留していたものであるとの誤った認定に基づくものであるから、誤りである。
しかして、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が木目模様転写後の被転写体表面に存在しても、明細書に記載されたとおりの結果を得られるものというべきである。
すなわち、本件発明は、特公昭52-41682号(甲第4号証の6)記載の技術(以下「先行発明」という。)が薄質膜に転写を依存することによって生じる問題点を解決することを課題として、薄質膜に転写を依存せず、「水溶性ベースに印刷しその上に接着剤を塗布した印刷模様を水溶性ベースの水漬による溶解により水面上に残留させた半流動性の印刷模様を形成」することにより解決しようとしたものである。本件発明の詳細な説明における「印刷用のベースは転写前において印刷模様から離脱していて、物体には附着しないから、之を転写後物体から除去する手数が不用」、「ベースが速やかに溶解消失」旨の記載は、ベースそのものは溶解し水溶液となっているのであるから、離脱あるいは消失していると評価して差し支えなく、物体に附着せず、除去する手数が不用という趣旨である。したがって、「粘着性を有し、透明で光沢のある付着物」が、被転写面に残存したとしても、これはベースではないから、ベースの除去が不要であることに変わりがない。
なお、本件発明は、先行発明の問題点である、「薄質膜を除去するにあたり転写パターンを損なわないような配慮を要する」点等を課題として解決しようとしたものであるから、水溶液であれば、薄質膜の除去を必要としないことが明らかである。したがって、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が、ベースの水溶液であれば薄質膜でないから、これを被転写体表面から除去する必要がないことは明らかである。
もとより、ベースの水溶液であっても乾燥後に溶解成分が被転写体表面に出現することは避けられないが、PVAの場合、乾燥後は透明な皮膜状態になる。印刷物の用途によってはこれで何ら差し支えないものもある。印刷物の用途(例えば、頻繁に印刷面に接触が加わるドアのノブ)によっては、転写印刷面の上に強固な保護層を必要とする場合があり、その場合には、水溶液を洗い流してその上に保護層を施すことがあるが、これは次の過程の事前処理であり、本件発明が先行技術の問題点とする除去とは異なる。
したがって、本件検証1においては明細書に記載されたとおりの結果は得られているのである。
<2> 他の実施例の結果の看過(取消事由2)
本件検証において、水溶性ベースとして紙に澱粉を塗布したものを用いたものについても実施されており(以下「本件検証2」という。)、これについては、明細書記載のとおりの結果が得られているにもかかわらず、かかる結果を看過して、本件発明の明細書に記載された実施例に基づき検証を行なっても、明細書に記載されたとおりの結果が得られないとした審決の判断は誤りである。
<3> 検証手続の違法性(取消事由3)
本件検証1において、PVA転写シートの一部に印刷を施さないベースのみの部分を一体に形成した試料を提供すべきであったにもかかわらず、原告が過失により、印刷を施さないベースのみの部分に透明な塗料(メジュウム)を塗布した試料を提供してしまった結果、所期の目的を達することができなかった。しかし、メジュウムの有無は一見しただけでは容易に判別しがたいことからすれば、原告の過失は極めて軽微である。原告は、本件検証の途中でかかる誤りに気付き、PVAは溶解し、浮かんでいるものはベースを押さえている透明インクであると説明したのであるから、審判官は、かかる誤りを容易に認識し、改めて、原告に対して、正当な試料の提供を求めて、検証を再実施することができたにもかかわらず、かかる説明を無視して、検証を続行した結果、前記(1)の誤った認定に至ったものである。
したがって、審決の認定及び判断は誤った検証手続の結果に基づくものであるから、審決は取り消されるべきである。
第3 請求の原因の認否及び被告の主張
1 請求の原因1ないし3は認める。同4は争う。審決の認定判断は正当であり、原告主張の違法はない。
2(1) 取消事由1について
<1> 本件検証1において、水面に浮かんでいたのはベース(PVA)でなく透明な塗料であるとの原告の主張は何ら証拠に基づかないものである。
検証調書(甲第3号証)の「PVAは、東京セロファン紙株式会社製のET-20を用い、その膜厚は20μmである。」(3頁ないし4頁)、「2)PVAフイルム上に、グラビア印刷により全面木目模様を印刷して、転写シートとする。(写真3参照)」(4頁)の記載によれば、本件検証1において用いられたのは、PVAフイルム上に、グラビア印刷により全面木目模様を印刷した転写シートであり、ET-20なるPVAフィルム上に、グラビア印刷により全面木目模様を印刷したものである。
したがって、PVAフィルムそのものについての試験の成績書(甲第16号証)は、本件検証1に用いられた転写シートについてのものではないことは明らかであり、甲第3、第15、第16、第18号証を総合して判明することは、本件検証及び上記試験に供された転写シートのベースに用いられたPVAフィルムは品番がET-20と呼ばれ、本件発明の出願日前から日本国内に出回っていたものと同等品であるというにすぎないから、本件検証に用いられた転写シートの構成が、PVAフィルムの上に、全面木目模様を介在させてから原告のいう透明な塗料すなわちメジュウムを印刷された三層のフィルムからなるものであるということにはならない。
<2> 仮に、本件検証1に用いられた転写シートがPVAフィルムの上に、全面木目模様を介在させてから原告のいう透明な塗料すなわちメジウムを印刷された三層のフィルムからなるものであったとしても、審決の判断は正当である。すなわち、転写シートが三層であるため転写後に、水面に浮かんでいたのは透明な塗料であったとしても、その透明な塗料が水を吸収して粘着性を帯びることはないのであるから、審決がそのような塗料を捉えて粘着性を有すると認定したのではない。つまり、透明な塗料が存在しようがしまいが、被転写体表面に存在する粘着性を有し透明で光沢のある付着物が存在する以上、後記<3>のとおり、本件発明の目的は達成されていないのであるから、明細書に記載されたとおりの結果が得られないとした審決の判断に誤りはない。
<3> 本件発明は、先行発明における問題点である薄質膜ごとの転写によって生ずる転写後の除去工程に伴う不都合をなくそうとすることを課題とするものである。したがって、本件発明において、転写後の印刷模様の表面に「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」が残存しているのでは、本件発明の目的は達成されていない。なんとなれば、この付着物を転写後除去する必要があり、それに伴い転写パターンが損なわれる危険性が残っているからである。本件発明において、乾燥後に被転写体表面に出現したPVAベースの溶解成分が、透明な皮膜状態になることは、先行発明における薄質膜が、転写後の印刷模様の表面に残存するのと全く同じ状態なのであって、先行発明において解決すべき課題は何ら解決されていないのであるから、明細書に記載されたとおりの結果が得られないことは明らかである。
原告は、乾燥後に被転写体表面に出現したPVAベースの溶解成分が透明な皮膜状態になることは、印刷物の用途によって何ら差し支えないと主張するが、先行発明の課題を解決するという本件発明の目的と用途とは関係がない。また、原告は、転写印刷面の上に強固な保護層を必要とする場合には、水溶液を洗い流して、その上に保護層を施すことがあるが、これは、次の過程の事前処理であり、先行発明の問題点である除去とは異なると主張するが、印刷模様の表面に付着したPVAの水溶液(審決によれば「PVAがまだ水に溶解消失せず、軟化膨潤して、残留していたもの」)を洗い流す必要がある点では、先行発明におけると同様に手間がかかるとともに印刷模様を損なうおそれがある点で、先行発明に存する問題点が残されているのであって、「次の過程の事前処理」もまた除去工程に他ならない。
よって、検証の結果によれば、本件発明の明細書に記載された目的及び効果が達成されていないことは明らかである。
(2) 取消事由2について
<1> 紙はPVAとは異なり水溶性とはいえないから、紙に澱粉を塗布したものは、本件発明の特許請求の範囲に記載された「水溶性ベース」とはいえない。したがって、紙に澱粉を塗布したものを用いた実施例は、本件発明の正しい実施例とはいえず、本件発明の技術的範囲に含まれない余事記載であるから、本件検証2の結果により、本件発明の明細書に記載されたとおりの結果が得たということはできない。
<2> 仮に、紙に澱粉を塗布したものが本件発明の実施例といえるとしても、二種類の実施例のうち、主要な実施例ともいうべきPVAについての実施例が実施不能である場合は、紙の実施例の実施が可能であっても、本件発明は実施不能として無効とされるべきである。
(3) 取消事由3について
<1> 本件検証1において、原告は、水溶性ベースを使用(4頁17行ないし18行参照)するとしながら、その一部に印刷を施さないベースの部分が未だ水面に浮かんでいる状態で接着剤を噴霧した(5頁3行ないし4行参照)のであり、それを審判官が咎めたのに対して、原告は、PVAは溶解し、浮かんでいるのはベースを押さえている透明インクであると説明した(5頁5行ないし7行参照)だけであって、何故にそこに透明インクが存在するかの説明もせず、実験を続行したのである。
このような状況であるから、はたして、原告が誤りに気付いていたかどうかは定かではない。もし、原告が、その時、試料の誤りに気付いていたのであれば、直ちにそれを審判官に告げるべきであった。
しかるに、原告はベースの誤りを告げるどころか、むしろ、審判官が水溶性ベースの溶解を確認するのを避けたというべきである。
しかし、審判官は、木目模様転写後の被転写体表面に粘着性を有し透明で光沢のある付着物が存在するのを見逃さず、正しく認定したものである。
したがって、審決の認定に誤りはない。
(4) 本件検証を経なくとも、本件発明は特許法36条3項及び4項の規定違反により無効であることは明らかである。すなわち、
本件発明は、先行発明に存在していた欠陥、すなわち、薄質膜とともに印刷パターンを転写する方法においては、薄質膜が物体の細かい凹凸面への印刷パターンの転写を妨げるため複雑な曲面への印刷が事実上不可能であり、薄質膜は印刷パターンの物体への転写後、物理的、化学的な手段により除去しなければならないから、工程数が多くなる不都合があるとともに、薄質膜の除去手段により転写された印刷パターンが損なわれない様にする等の配慮をも要する等多くの欠点があった(甲第2号証1欄26行ないし2欄17行)のに対し、この欠点を除こうとする課題を有しており、この課題を解決する手段を提供するはずであった。しかるに、本件発明は、先行発明における薄質膜とは異なる挙動をとって速やかに水中で溶解消失するべきベースの材料選択につき、何ら説明し開示するところなく、先行発明の材料の一つであるポリビニルアルコールを「水溶性ベース」として用いると述べるに止まり、先行発明が克服し得なかった課題を解決すべき新しい手段を全く開示していない。
このように、本件発明の明細書には、発明の詳細な説明の欄に当業者が容易に実施することができる程度に発明の目的、構成、効果が記載されているとは認められず、また、特許請求の範囲の欄に、その発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しているともいえないから、検証をまたずに、特許法36条3項及び4項の規定に違反していることは明らかである。
第4 証拠関係
証拠関係は、本件記録中の書証目録の記載を引用する(甲第16、第18号証を除き、書証の成立について当事者間に争いがない。甲第3号証については原本の存在についても当事者間に争いがない)。
理由
1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、2(本件発明の要旨)及び3(審決の理由の要点)は、当事者間に争いはない。
2 甲第2号証(本件発明の出願公告公報、以下「本件明細書」という。)によれば、本件明細書には、本件発明の技術的課題(目的)、構成及び作用効果について、次のとおり記載されていることが認められる。
「本発明は、物体の曲面へ任意の印刷模様を変形させることなく確実に転写する印刷方法に係るものである。」(1欄21行ないし23行)が、「従来、物体の曲面へ注意(「任意」の誤記と認められる。)の印刷模様を転写する方法として、特公昭52-41682号に係る方法が公知であるが、この方法は薄質膜に塗料や印刷インク等を使用してパターンを印刷し、次いで上記薄質膜を、そのパターン印刷面を上にして液体上に浮かべ、しかる後上記薄質膜に物体を押圧しつつこれを全部又は一部液中に、沈降せしめ以つて上記液体の液圧により上記パターンを物体表面に転写し、更に転写時以降において、上記薄質膜を物体表面除去するものであった…。薄質膜と共に印刷パターンを転写する方法においては、薄質膜が物体の細かい凹凸面への印刷パターンの転写を妨げるため、複雑な曲面への印刷が事実上不可能であるし、更に又、薄質膜は印刷パターンの物体への転示(「転写」の誤記と認められる。)後、物理的、化学的な手段により除去しなければならないから、工程数が多くなる不都合があると共に、薄質膜の除去手段により転写されたパターンが損なわれない様にする等多くの欠点があった。」(1欄24行ないし2欄19行)ため、前記本件発明の要旨のとおりの構成を採用した結果、「本発明に係る方法は、任意の模様を水溶性ベース上に印刷してその上に接着剤を塗布し、この印刷模様を上記ベースの水漬による溶解により水面上に残留させて、半流動性の印刷模様に上方から物体を押し当てて、物体表面への模様転写を行わせるものであるから、水溶性のベースを水に漬けると之が速やかに溶解し、印刷模様を変形させることなくそのままの状態で水面に浮上させるから、物体の表面に印刷通りの模様(一定した模様)を得ると云う所期の目的が完全に達成される…、このベースを溶解して印刷模様だけを残留させる方法においては、半流動性を有する印刷模様が物体の細かい凹凸面へも自由に馴染むため、複雑な曲面への印刷が簡単に出来るし更に又、印刷用のベースは転写前において印刷模様から離脱していて、物体には附着しないから、之を転写後物体から除去する手数が不要でこの際転写印刷を損うこともないから、曲面へ複雑な模様を簡単確実に転写する方法として極めて効果の大きいものである。」(2欄20行ないし3欄6行)
3 原告主張の審決の取消事由について検討する。
(1) 本件検証1において、次の検証結果が得られたことは当事者間に争いがない。
<1> 曲面を有する被転写体に、木目模様が転写された。
<2> 木目模様転写後の被転写体表面には、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が存在した。
<3> 接着剤を噴霧後の水面上の印刷模様に大きな変形はなかった。
(2) 取消事由1について
<1> まず、原告は、審決の「印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいた。」(甲第1号証10頁3行ないし4行)との認定は誤りであり、PVAベースは転写時には既に溶解し、水面に浮かんでいたのはベース(PVA)ではなく、同ベースに施されていた透明インク(メジュウム)であった旨主張する。
ところで、メジュウムというのは、甲第19号証(印刷インキハンドブック 印刷インキ工業連合会 昭和53年6月発行)及び弁論の全趣旨によると、印刷インクの色を薄めるための透明な補助インクであり、色濃度調整の他、印刷適性の付与や光沢増大にも効果があるものであることが認められるところ、甲第15号証(物件提出書)によると、本件検証当日(平成3年3月26日)、原告は特許庁審判長宛に物件提出書をもって、東京セロファン紙株式会社製造に係るPVAフィルム「ET-20」を使用したPVA転写シートを提出したが、同提出書には、同シート上に前記透明インクを施したものである旨の記載はなかったことが認められる。しかも検証調書(甲第3号証)によれば、本件検証1について、原告が使用する転写シートについての事前説明としては、「1)PVAは東京セロハン株式会社製のET-20を用い、その膜厚は20μmである。(本日付け提出の物件提出書参照。)2)PVAフィルム上に、グラビア印刷により全面木目模様を印刷して、転写シートとする。(写真3参照)」(3頁14行ないし4頁5行)とのみ記載されていることが認められ、同記載によれば、事前説明において、当事者から転写シートに前記透明インクが施されている旨の説明はなされなかったと認められるが、さらに、「2、作業手順…3)印刷面を上にして、PVA転写シートを水漬する。(写真6参照)(水溶性ベースの溶解を確認するために、一部に印刷を施さないベースを使用)4)約5分間水漬する。(写真7参照)(PVA溶解と説明)5)転写シートに、接着剤を噴霧する。(写真8参照)(一部に印刷を施さないベースが、未だ水面に浮かんでいる状態で接着剤を噴霧した。これについては、PVAは溶解し、浮かんでいるのはベースを押さえている透明インクであるとの説明があった。)」(4頁6行ないし5頁7行)との記載によれば、作業の途中で、原告から透明インクについての説明が付加されているものと認められる。
しかして、仮に、原告主張のとおり、原告から提出されたET-20を用いたPVA転写シートに前記透明インクが施されていたとすると、前記透明インクは水に不溶性であるものと考えられるから、本件検証1において、水面に浮かんでいたのは、前記透明インクか又は前記透明インクの層とベースあるいはベースが溶解したものの水に拡散しない層からなるものしかあり得ず、「ベースのみの部分」が浮かんでいたことはあり得ない。
しかるに、審決は、PVAは溶解し、水面に浮かんでいるのは透明インクであると当事者からの説明があったにもかかわらず、当該説明を何ら顧慮することなく、「検証においては、水溶性ベースの水漬による溶解消失を確認するために、PVA転写シート(PVAフィルム上に全面木目模様を印刷したシート)の一部に一体に印刷を施さないベースのみの部分を形成し、このPVA転写シートを約5分間水漬した後に、接着剤を噴霧し、被転写体に印刷図柄を転写した」(甲第1号証9頁15行ないし10頁1行)が、「その際、前記PVA転写シートの一部に一体に形成しておいた前記印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいた。」(同号証10頁1行ないし4行)と認定したという他はなく、したがって、審決の、「印刷を施さないベースのみの部分が、未だ水面に浮かんでいた。」との認定は誤りということにならざるを得ない。
しかしながら、仮に、原告主張のとおり、本件検証1において、原告から提出されたPVA転写シートが前記透明インクを施されてたものであり、水面に浮かんでいたのは、透明インクか又は透明インクの層とベースあるいはベースが溶解したものの水に拡散しない層からなるものしかあり得ないとしても、透明インクの存在の可能性は、後記<2>のとおり、木目模様転写後の被転写体表面に存在した「粘着性を有し、透明で光沢のある付着物」についての判断に影響を及ぼすものではないから、上記認定の誤りは結論に影響を及ぼすものではないと解される。
<2> 次に、原告は、審決の「前記の透明で光沢のある付着物は、この水溶性ベースの水漬による溶解消失を確認するために、PVA転写シートの一部に一体に形成しておいた印刷を施さないベースのみの部分で、未だ水面に浮かんでいた物質と同じものであると認められ、PVAベースが未だ水に溶解消失せず、軟化膨潤して、残留していたものである」(甲第1号証10頁5行ないし11行)との認定は誤りである旨主張する。
本件検証1の検証結果においては、前記(1)のとおり、木目模様転写後の被転写体表面には、粘着性を有し、透明で光沢のある付着物が存在したが、前記<1>のとおり、PVA転写シートに前記透明インクが施されていた可能性があり仮に前記透明インクが施されていたとすると、水面に浮かんでいたのは、透明インクか又は透明インクの層とベースあるいはベースが溶解したものの水に拡散しない層からなるものしかあり得ない。しかしながら、印刷インク及び透明インクは印刷模様の転写という本件発明の目的からいって、前記のとおり、水に不溶性であると考えられるので、前記「粘着性を有し、透明で光沢のある付着物」はPVAベースあるいはその溶解したものと解する他なく、未だ水面に浮かんでいた物質と同じものであるとの審決の認定及び判断は措辞十分とはいえないにしても、これを誤りとまではいうことはできない。
<3> 原告は、「粘着性を有し、透明で光沢のある付着物」が木目模様転写後の被転写体表面に存在しても、明細書に記載されたとおりの結果を得られるものというべきであると主張し、被告は、本件発明は、先行発明における問題点である薄質膜ごとの転写によって生ずる転写後の除去工程に伴う不都合をなくそうとすることを課題とするものであるところ、転写後の印刷模様の表面に、「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」が残存しているのでは、本件発明の目的は達成されていないのであるから、明細書に記載されたとおりの結果が得られないとの審決の結論は正当であると主張する。
前記2認定に係る本件明細書における本件発明の技術的課題(目的)、構成、作用効果に関する記載によれば、本件発明は、薄質膜上に塗料や印刷インク等を使用してパターンを印刷し、次いで上記薄質膜を、そのパターン印刷面を上にして液体上に浮かべ、液体の液圧により上記パターンを物体表面に転写し、更に転写時以降において、上記薄質膜を物体表面除去するという先行発明(特公昭52-41682号、甲第4号証の6)の問題点の解決を課題とし、物体の表面の曲面に一定した模様を得ることを目的として、物体の曲面へ任意の印刷模様を変形させることなく確実に転写する方法であって、任意の模様を水溶性ベース上に印刷してその上に接着剤を塗布し、この印刷模様を上記ベースの水漬による溶解により水面上に残留させて、半流動性の印刷模様に上方から物体を押し当てて、物体表面への模様転写を行わせるという構成を特徴とする印刷方法であり、半流動性を有する印刷模様が物体の細かい凹凸面へも自由に馴染むため、複雑な曲面への印刷が簡単に出来るし更に又、印刷用のベースは転写前において印刷模様から離脱していて、物体には附着しないから、之を転写後物体から除去する手数が不要でこの際転写印刷を損うこともないとの作用効果を奏するものと認められる。
本件検証1の検証結果において、曲面を有する被転写体に、木目模様が転写されたことは、前記(1)のとおりでありこれに、検証調書(甲第3号証)の写真9及び10を参酌すると、本件検証1において、物体の曲面の表面に一定した模様を得るという目的は達成されていると認められる。
確かに、前記(1)のとおり、検証1において、転写後の被転写体表面に、「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」が残存しているが、かかる付着物は、PVAベースあるいはその溶解したものといわざるを得ないものの、前記本件明細書の記載における「印刷用のベースは転写前において印刷模様から離脱していて、物体には附着しないから、之を転写後物体から除去する手数が不要でこの際転写印刷を損うこともない」(本件明細書2欄37行ないし3欄4行)との作用効果を奏することに変わりはないと解される。すなわち、本件検証1において、残存した「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」は膜という一定の形状を備えるものではなく、その上に印刷模様を保持したり、転写時に印刷パターンの転写を妨げる程度の抵抗を生じたりするものとは考えられないから、もはや本件発明におけるベースとは到底いえないものである。
したがって、本件検証1において、本件明細書に記載されたとおりの結果が得られたと認められるから、審決の「本件特許発明の明細書に記載された実施例に基づき検証を行なっても、明細書に記載されたとおりの結果が得られない」(甲第1号証10頁末行ないし11頁2行)との判断は、誤りである。
なお、被告は、印刷模様の表面に付着したPVAの水溶液を洗い流す必要がある点では、先行発明におけると同様に手間がかかるとともに印刷模様を損なうおそれがある点で、先行発明に存する問題点が残されているから、本件明細書に記載された目的及び効果が達成されていないと主張するが、検証調書には、転写後の印刷模様の表面に残存する、「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」の除去についてはなんら記載されておらず、本件検証1の結果により、「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」の除去が、印刷模様を損なうものと認めることはできない。そうすると、上記付着物の存在により、本件明細書に記載されたとおりの結果が得られないと認めることはできない。
さらに、印刷模様の表面に付着したPVAの水溶液を洗い流す工程自体は通常の洗浄工程と解されるところ、甲第4号証の6(特公昭52-41682号公報、先行発明に係る出願公告公報)及び乙第2号証(特開昭51-21911号公報、先行発明に係る出願公開公報)の「薄質膜2を除去された物体5は、仕上室7で洗浄乾燥等の処理をされ、最終的に取出される。」(甲第4号証の6、5欄8行、ないし9行、乙第2号証3頁右上欄8行ないし9行)との記載によれば、薄質膜の除去と洗浄とは別の工程であると認められるから、印刷模様の表面に付着したPVAの水溶液を洗い流す工程が必要であるからといって、上記のとおり、ベースの水漬による溶解によりベース上に印刷された印刷模様をベースから離脱させることにより、薄質膜の除去を不要とした本件発明の目的が達成されないと認めることはできない。
したがって、本件検証1において、「粘着性を有し透明で光沢のある付着物」が、木目模様転写後の被転写体表面に存在しても、本件明細書に記載されたとおりの結果を得られたものというべきであり、被告のこの点についての主張は採用できない。
<4> 以上によれば、審決の、「水溶性ベースを水に漬けると、これが速やかに溶解消失され、印刷模様だけが変形されることなくそのままの状態で水面に浮上させることができるものとは認められず、また、印刷用のベースは転写前において印刷模様から剥離し、被転写体表面に付着していないものとも認められない。」との認定は誤りであり、さらに、「本件特許発明の明細書に記載された実施例に基づき検証を行なっても、明細書に記載されたとおりの結果が得られない。」との判断も誤りであり、上記認定及び判断の誤りは結論に影響を及ぼすことは明らかである。
したがって、原告の取消事由1は理由がある。
(3) 取消事由2(他の実施例の結果の看過)について
発明の一実施例で明細書に記載されたとおりの結果が得られたとしても、他の実施例で明細書に記載されたとおりの結果が得られなければ、発明全体としては明細書に記載されたとおりの結果が得られることにはならないから、水溶性ベースとして紙に澱粉を塗布したものを用いた実施例が、検証2において、明細書に記載されたとおりの結果が得られたことのみをもって、本件発明が明細書に記載されたとおりの結果が得られるものということはできない。したがって、原告の取消事由2は理由がない。
(4) 取消事由3(検証手続の違法性)
前記(2)<1>のとおり、本件検証1において、透明インクが転写シートのベースを押さえている旨の当事者の説明があったのであるから、かかる説明が否定されない以上、本件検証1に用いられた試料は、本件明細書に記載された実施例どおりのものではないことは明らかである。したがって、当事者から透明インクの存在について説明があった時点で審判官としては、検証を中止し、改めて、正当な試料の提供を求めるべきであったと認められる。仮に、誤った試料の提供が原告の過失によるものであったとしても、誤った試料の提供が検証の途中で判明した以上、検証を中止し、改めて、正当な試料の提供を求めるべきであることには変わりはない。
しかしながら、前記(2)<1>のとおり、審決の透明インクの存在の可能性についての認定の誤りは、結論に影響を及ぼさないから、上記検証手続の違法性は結論に影響を及ぼさないと認められる。したがって、原告の取消事由3は理由がない。
(5) 被告は、本件明細書において、先行発明における薄質膜とは異なる挙動をとって速やかに水中で溶解消失するべきベースの材料選択につき、何ら説明し開示するところなく先行発明の材料の一つであるポリビニルアルコールを「水溶性ベース」として用いると述べるに止まり、先行発明が克服し得なかった課題を解決すべき新しい手段を全く開示していないから、審決の、本件発明が特許法36条3項及び4項(昭和60年法律41号により改正されたもの)の規定に反するとの判断は正当であると主張する。
しかしながら、本件明細書が、先行発明の材料の一つであるポリビニルアルコールを「水溶性ベース」として用いると述べるに止まり、先行発明が克服し得なかった課題を解決すべき新しい手段を全く開示していないとの被告の主張は、本件発明が、先行発明と対比して、新規性あるいは進歩性がないとの主張に他ならず、審決が、先行発明との対比については、何ら判断していないのであるから、被告の上記主張は失当である。
4 以上のとおり、審決の、本件発明は、特許法36条3項及び4項の規定(昭和60年法律41号により改正されたもの)に違反しているとの判断は誤りであるから、審決は違法として取り消されるべきである。
よって、原告の請求を認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 伊藤博 裁判官 濵崎浩一 裁判官 押切瞳)